「幕張(まくはり)」名前の由来
幕張は、古くは千葉郡大須賀荘須賀原とか、大須賀荘幕張本郷とか呼ばれ、室町期以後は馬加(まくわり)郷と称したが、大正末期から幕張と改称された。
また、伝説として源頼朝がこの地を通る際、陣幕を張って休息したところからといわれ、さらに馬加の地名は、その時に不足した馬を加えたところからとも伝えられている
■昆陽(こんよう)神社
京成幕張駅改札口の目の前に甘藷(かんしょ)先生として知られる蘭学者青木昆陽を祀る昆陽神社があった。【甘藷(かんしょ):サツマイモ】 青木昆陽は元禄11年(1698)江戸日本橋の魚問屋佃屋半右衛門の子として生まれ、名を敦書(あつのり)、通称を文蔵といった。昆陽は学問を好み、22歳の時に京都堀川の伊藤東涯(とうがい)に師事し、古義学(論語・孟子の思想を基礎とし、道徳の実践を重んじた学問)を学んだ。 そのころ関西地方には甘藷(サツマイモ)の栽培が普及し始め、同じ伊藤東涯門下の本草学者(薬草をはじめ、薬物として用をなす動植鉱物を研究する学者)松岡妙庵(成章)(まつおかじょあん)が著した「蕃薯禄(ばんしょろく)」(甘藷の成分や薬効、そして甘藷の栽培方法等を記した書)によって甘藷が救荒作物として重要であることを知る。 注釈【蕃薯(ばんしょ):サツマイモの別称 いも:芋・薯・藷】 江戸へ帰って後、昆陽の家の地主南町奉行の与力加藤又左衛門枝直の推挙により、南町奉行大岡越前守忠相(ただすけ)の知遇を得、幕府の書物方に登用された。 各地の古文書調査と、幕命による蘭語、蘭学研究(オランダ語によって西洋の学術を研究しようとした学問)にはげむ一方、「蕃薯考(ばんしょこう)」を著して甘藷栽培の効用を説き、これを救荒食とすべきことを八代将軍徳川吉宗に上書、それが認められて甘藷試作地に選ばれたのが、ここ馬加村(現千葉市幕張町)の試作地と江戸小石川の養生園(現小石川植物園)、上総豊海不動堂(現山武郡九十九里町)であった。 不動堂では迷信のため栽培を嫌う者もいたが、馬加村では種イモ17個から2石7斗6升を収穫する成功をおさめた。その後甘藷栽培は次第に増え、天明(1783〜88まで続く)・天保(1833〜39まで続く)の大飢饉にも、このあたりで餓死するものは皆無であったという。その後、昆陽の徳を讃え、弘化3年(1846)12月、甘藷試作のゆかりの地を前面に望む火伏せの神を祀る秋葉神社境内に昆陽神社が建てられた。昔は毎年10月12日芋神様の祭りとして、子供たちの奉納相撲が催されていたと言う。また、この日は昆陽の命日にあたる日でもある。
■甘藷(かんしょ)試作地跡
昆陽神社前にブロックに囲まれた甘藷試作地跡があり、千葉県指定史跡となっている。
試作地跡には、「昆陽先生甘藷試作之地」と刻まれた碑が建てられている。碑の裏面には、享保20年(1735)5月12日栽培・大正8年(1919)5月建立と刻まれている。
■宝幢寺(ほうどうじ)
昆陽神社から京成電鉄沿い(上り方向)に700mほど行くと、真言宗豊山派の古刹、宝幢寺(ほうどうじ)がある。
この寺は、大同元年(806)宥恵法印の開基で、明治5年、馬加(まくわり)村にあった竜王院・正円寺・福寿院・延命寺を合併し、さらに阿弥陀寺の境内に宝幢寺を移したもので、本尊は聖観音菩薩である。
この堂内には各寺から集めた仏像があるが、特に旧阿弥陀寺の本尊阿弥陀如来像と、大須賀山(通称:堂の山)と言われている標高15mの丘の麓にある大日堂(平成13年3月、老朽化のため取り壊された)から遷した等身大の金剛界大日如来座像は、室町中期の寄木造漆箔の尊像で、千葉市文化財となっている。
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■子守(こまもり)神社 (幕張二丁目) |
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宝幢寺の南西300mほどの所に子守(こまもり)神社がある。祭神は奇稲田姫命(くいなだひめのみこと)・ 建速素盞鳴尊(たけはやすさのをのみこと)・大己貴尊(おおなむちのみこと)を祀る。千葉介平常胤(チバノスケタイラノツネタネ)の4男、大須賀四郎胤信(タネノブ)が1194年に造営したものと伝えられる。 |
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■子守神社の社殿は、平成14年5月建替のため取り壊され、再建中でしたが、新しい社殿が完成し、平成16年5月1日から5日まで奉祝祭が開かれ、5月1日には本殿遷座祭が行われました。 |
■大須賀山(通称:堂の山)の大日堂
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大日堂は、宝幢寺の境外仏堂で、大須賀山(通称:堂の山)と言われている標高15mの丘の麓にかなり古ぼけたさまで建っていた。 |
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前述の金剛界大日如来座像は、左の写真のわらぶき屋根の堂に安置されていたものです。昔は、老人達がおこもりをしたと云う。写真のお堂は、火災による古材で再建したものです。お堂の裏には、風邪を治すという地蔵尊がある。 |
大須賀山(通称:堂の山)へは、浜田川(幅5m程の小川)を渡ると、セブンイレブンがある。そこから約30m程行くと石段があり入り口には、史跡の案内板があるので目印にしてください。
■堂の山(どうのやま) 馬加康胤(まくわりやすたね)首塚
堂の山(大須賀山)は、東京湾にただ1つ残るタブ・ヤブニッケイが繁る標高15mの自然林で、海岸林の様子をよく残している。
その頂上には、うっそうと茂るタブの木々に護られるようにして、馬加(千葉)康胤(まくわりやすたね)の首塚といわれる方形の塚とその上に江戸初期の五輪塔がある。
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千葉宗家の滅亡と馬加康胤の首塚
千葉氏の全盛期は、千葉常胤(つねたね)が源頼朝の宿将として鎌倉幕府創設に活躍し以後300年間であったが、康正元年(1455)、室町中期、八代将軍足利義政の頃、関東では、足利幕府に反抗する鎌倉公方足利成氏とその補佐役であるべき関東管領上杉憲忠との対立が表面化し、成氏は古河(現茨城県古河市)にのがれて東関東の諸豪族を味方に引き入れ、関東は内紛の戦火にまきこまれていた。
下総では千葉氏宗家である猪鼻(いのはな)城主千葉胤直(たねなお)は、その母が上杉禅秀の娘である関係から上杉方に味方し、千葉家の重臣原胤房(たねふさ)と胤直の叔父である馬加(幕張)城主馬加康胤(まくわりやすたね)が古河公方方に味方したことから千葉氏一族は分裂し、骨肉の争いを始めることになった。
千葉家の重臣原胤房と馬加康胤は、千葉家の居城猪鼻城を焼き討ちにし、本家の千葉胤直を死に追いやった。こうして中世の名門千葉氏の宗家は滅亡し、馬加康胤は自ら千葉介を称し第17代宗主となり、原胤房は小金城(現柏市小金町)にあって、ともに古河公方の勢力圏に入った。
このことは、上杉氏にとって、重大な脅威であるばかりでなく、上杉氏を援けて古河公方を追討しようとする室町(足利)幕府にとっても、断じて認めることはできなかった。
室町将軍足利義政は、千葉支族の東常緑(とうのつねより)に、馬加康胤追討の命を下し馬加(幕張)城を攻めた。康胤は戦いに敗れて、康正2年(1456)11月、上総の八幡(現市原市八幡)の雁田川のほとりで討ち死にした。
千葉宗家を名のること、わずか一年八ヶ月であった。
康胤の遺体は、八幡の地に葬られ、市原市八幡町の無量寺の墓地の一隅に馬加康胤の墓があります。墓には、千葉家家臣一同と書かれた卒塔婆と花が供えられており、現在においても、千葉家由来の方がお参りされているようです。また、康胤の首は、家臣によって幕張の堂の山に運ばれて葬られたと云われ、『堂の山の首塚』として、その伝説が伝わっている。また、この塚は、戦乱の死者を葬った所とも云われている。後の応仁2年(1468)7月16日に供養塔を建て、さらに寛永10年(1633)に今の五輪塔が建てられたと云う。
◆ サツマイモ(甘藷)の生産日本一は千葉県
平成10年の千葉県の生産高は212億円で日本一です。気候や土地が生育に適していることもありますが、青木昆陽で知られる甘藷栽培試作成功の地としての誇りと、穴沢松五郎の栽培方法など、ノウハウの蓄積がこれを支えています。
また、イモ堀り観光農園も沢山あり、家族連れの方も気軽にイモ掘りを楽しむことができます。
1945(昭和20年)●始まりは食料増産から
東京湾に残された数少ない臨海部の埋め立ては戦後すぐに始まる。1945年、政府は食料増産のための緊急開拓事業のひとつとして幕張の埋め立てを閣議決定。その後、事業目的は中小工場用地造成に変更され、1964年、60haの造成が完成した。
1967(昭和42年)●海浜ニュータウン計画を発表
都心部から30km圏、広大な埋め立ての可能な稲毛、検見川、幕張に計画人口24万人の海浜ニュータウン建設が計画された。経済発展と急速な首都近郊のスプロール化に対して都市を計画的に誘導し、良好な住宅地として整備することをめざした。
1973(昭和48年)●海浜ニュータウン幕張地区埋め立て着工
1975(昭和50年)●「幕張新都心(A地区)基本計画」を発表
業務中枢機能の東京一極集中に歯止めをかけることを目的に、住宅中心の土地利用計画を大幅に見直し、業務機能をもつ新都心を建設することを決定。現在の幕張新都心を構成する業務研究・タウンセンター・住宅・海浜公園などの要素も出そろう。
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1980(昭和55年) |
●幕張地区埋め立て工事完了 |
1976(昭和51年)●「学園のまち」構想を発表
1976年の「千葉県新総合五ケ年計画」は、千葉圏内における進学率の上昇、学生数の増加に対応して幕張新都心に教育文化機能を充実させる「学園のまち」構想を示した。早稲田大学の幕張移転計画構想は断念されたが、81年より順次、県立衛生短期大学、放送大学、神田外語大学など大学3校、高校6校、海外職業訓練協力センターなど6つの文化・教育施設が文教地区を形成した。
1980(昭和55年) ●幕張地区埋め立て工事完了
● 県立幕張東、西、北高校開校
● 人口海浜「幕張の浜」「稲毛の浜」オープン
1982(昭和57年) ●東関東自動車道(宮野木〜市川)開通
●幕張メッセ構想を発表
●千葉スタジアム構想を発表
●千葉県総合教育センター進出
1983(昭和58年) ●千葉新産業三角構想策定(基幹プロジェクトに位置付けられる)
●幕張新都心事業化計画策定
1985(昭和60年)●幕張メッセ施設基本計画策定
●放送大学オープン
●幕張新都心都市施設基本計画策定
1986(昭和61年)●海浜幕張駅開設(JR京葉線千葉みなと〜西船橋開業)
1987(昭和62年)●幕張海浜公園オープン
新都心のオアシス、幕張海浜公園の一部(中央地区)がオープンした。海浜公園は総面積72ha、日比谷公園の約4倍。7つのブロックに分かれ、海、緑、スポーツ、国際交流などのテーマごとに整備され民間活力を利用した「海のシルクロード・ファンクルズガーデン」の導入が決定している。ほかに日本庭園「見浜園」(1.6ha)が90年に完成。95年には第12回全国都市緑化ちばフェアが開催された
1989(平成元年)●幕張メッセオープン
●幕張新都心に拡大地区を編入
●東京ガス、地域冷暖房供給開始
1990(平成2年)●千葉マリンスタジアムオープン
●JR京葉線全線(蘇莪〜東京)開業
●幕張テクノガーデンオープン
●日本庭園「見浜園」オープン
●幕張新都心住宅地事業計画策定
●海外職業訓練協会進出
千葉マリンスタジアムがオープン〉
3月、幕張メッセの海側に総面積(延床)4万4782平方メートル、3万人収容とい
う国際級規模の千葉マリンスタジアムがオープンした。92年からは千葉ロッテマリ−
ンズのホームグラウンドとして、〈熱パ〉演出にも一役買い、プロ野球はもちろん、
アメリカンフットボール、サッカー、コンサート、市民祭など、スポーツイベントを
中心に、幕張海浜公園集客の原動力となっている。
1991(平成3年)●千葉業務核都市基本構想(幕張新都心含む)が承認される
●ワールドビジネスガーデン(WBG)オープン
1992(平成4年)●日本都市計画学会「石川賞」を受賞
●IBMコンピュータギャラリー、BMWショールーム、富士通ドー
ムシアター(現在休館中)、北澤美術館(2000年閉館)が次々にオープン
1994年(平成6年)●幕張ベイタウンの分譲開始
1995(平成7年)●住宅地区「幕張ベイタウン」入居開始
●住宅地区に打瀬小、中学校開校
〈「幕張ベイタウン」オープン〉
幕張ベイタウンの第一期として、パティオス1番街〜6番街の入居者704戸、1800人が3月に入居開始。4月には住宅地区に打瀬小、中学校開校、97年には海浜幕張駅との間をベイタウンバスも開通。
1996(平成8年)●幕張総合高校開校
●メッセモール完成
1997(平成9年)●「パルプラザ幕張」オープン
●「べイタウンバス」運行開始
●幕張メッセ国際展示場9〜11ホールが増設オープン
●ベイタウン高層街区、超高層街区に着手
1998(平成10年)●幕張ベイタウンに商業施設棟オープン
●「幕張新都心第2ステージ推進方針」の策定
●幕張メディアサーフィン内に「マルチメディア工房」オープン
●幕張新都心拡大地区将来ビジョン検討委員会設置
●「幕張ギガビットリサーチセンター」設置決定
●ジェトロ千葉貿易情報センターオープン
1999(平成11年)●幕張新都心が10周年を迎える
●「幕張ギガビットリサーチセンター」開設
●「アジア経済研究所」開設
●幕張ベイタウンがグッドデザイン賞施設部門のアーバンデザイン賞を受賞
2000(平成12年)●マリーンデッキ完成
●タウンセンター地区・拡大地区に大型商業施設が次々オープン
2001(平成13年)●幕張ベイタウンに海浜打瀬小学校開校
●幕張ベイタウンの人口1万人超える
●(財)千葉県産業振興センターが幕張サロンを開設
2002(平成14年)●千葉港 港湾計画に旅客船ふ頭の位置付
●幕張ベイタウン・コアがオープン
●幕張ベイタウンに初の保育園開園
●海浜幕張駅前に「シネマ・コンプレックス」誕生
●拡大地区に日産(株)の進出が決定
2003(平成15年)●拡大地区に、日産自動車のカーショップ「カレスト幕張」がオープン
●住宅地区「幕張ベイタウン」の住宅供給戸数が5,000戸を超え.る
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青木昆陽甘藷試作地 |
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幕張海浜公園・・・新都心と共存するオアシス |
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水と緑豊かな街・幕張で、人々の交流の場となっている幕張海浜公園は、7つのブロックに分れています。訪れた人をあたたかく迎える「花の広場」や「彫刻と緑のプロムナード」をはじめ、「マウンテンバイクコース」、「わんぱく広場」や「にぎわい広場」など、53.6ヘクタールにおよぶ公園施設それぞれが、成長を続ける街の魅力となっています。とりわけ、公園の中央部で静かな佇まいを見せる日本庭園「見浜園」には日本の美を象徴する樹木や滝が配置され、国際都市における玄関口としての役割を果たしています。また、茶室「松籟亭(しょうらいてい)」では、気軽に茶の湯を楽しむことができます |
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検見川の浜・・・水面に咲く色とりどりの帆 |
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日本で最初の人工海浜「いなげの浜」につづいて作られた「検見川の浜」、砂浜にうち寄せるおだやかな波は、都会の喧噪の中、訪れる人に一時の安らぎを与えてくれます。浜のすぐそばにある、カモメのオブジェは目印の「美浜大橋」からは、検見川の浜を一望。海に沈む美しい夕景を眺めることもできます。浜にはヨットハーバーもあり、クルージング・ウインドサーフィンを楽しむ人で賑わいをみせています。 |
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稲毛民間航空記念館・・・民間航空発祥の地・稲毛 |
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稲毛記念館・・・彼方の富士 眼下の東京湾 |
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市民ギャラリー・いなげ・・・神谷伝兵衛の別荘も見もの |
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ゆかりの家・いなげ・・・“往時”を記憶する住居 |
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浅間神社・・・かつては源
頼朝も参篭 |
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